とっきー&なっきー「旅の思い出日誌」

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1400年前、日本のロスチャイルドである、藤原五摂家一族を作った男!

この記事は、

「公家の名門、藤原氏は、

日本のロスチャイルドだった」

 

www.herumusuree.work

 

の続編になります。

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画像出典:ウィキペディア引用

結論から言うと、「中臣鎌足」が、

藤原一族の創始者です。

中大兄皇子と中臣鎌足と言えば

「645年の大化改新」!

と思った貴方は、そこそこ「ジジババ!」

今は、「乙巳の変」と教科書に載ってます。

 

乙巳の変とは、ごく簡単に説明しますと、聖徳太子を殺害し、

国の政治を欲しいままにしていた、蘇我氏を、クーデターにより、誅殺した動乱の事です。

しかし今は、大化改新自体が、無かったのでは?と言われています。

 

日本には、いくつか歴史的価値のある、文献が残っています。

例えば、「日本書紀」や「古事記」など、諸々です。

しかし、大化改新の記述は、日本書紀が伝えるもののみです。

「古事記」に至っては、冠位十二階や17条憲法を制定して国の基礎を作った

聖徳太子に関する記述も見られません。存在自体も怪しまれています。

 

この様に、歴史と言うものは、勝者が自分達に都合の良いように、

後から編纂して行くものなのです。

 

皆さんよくご存知の「キングダム」の始皇帝。

彼も「焚書坑儒」なるものを行なって、都合の悪い思想を排除しました。

 

日本における、貴重な歴史書は、大化改新の動乱の折、全て消失と言われています。

それだから、後の700年代になって、古事記なり、日本書紀が編纂されたのです。

 

大化改新が無かった!と言う根拠は、色々あります。

例えば、大化改新の詔には、大きな4項目がありました。

その一つに「国郡里制」があります。

646年改新の詔では、現在の「市や区」に当たる単位を「郡」としました。

しかし、700年代の「藤原京」から出土した木簡には、「評」と書かれています。

「評」は、改新より前の「市や区」を表す単位です。

改新から50年を経た都で、無くなったはずの単位が、使われている。

つまり、元々「郡」の単位が制定されたのは、700年代以降かも?

他の改新の詔についても、ほぼ700年代に制定された「大宝律令」のコピーです。

 

大宝律令の基礎を築いたのは、「藤原不比等」です。

日本書紀の編纂にも、深く関わった、とされています。

 

現在の歴史的な研究から、明らかになった、可能性の高い推測は

 

聖徳太子の偉業は、おそらく「蘇我馬子」の功績であろう事。

改新の詔はもっと小規模で、現在の内容は、大宝律令から移し取ったもの。

尚、藤原不比等は、中臣鎌足の実子です。

 

つまり、日本書紀の存在意義は

乙巳の変は、クーデターによって国を奪い取った歴史では無く

「天皇と藤原一族が、日本初の律令制度による、統一国家を作った!」

と言う事を、内外にアピールする為の、作られた歴史書の可能性が

現在の研究によって、段々と明らかになって来ています。

 

右大臣の地位にまで、上り詰めた藤原不比等は、父の偉業を讃える歴史書を編纂し

後々の朝廷内部に、藤原一族の勢力を拡大すべく、4人の息子達を放ちます。

 

それから先の物語は、また後日に記します。

本日は、記事を読んでくださり、ありがとうございました。

 

歴史の事ですので、色々と諸説があります。

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