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日本三大怨霊伝説「菅原道真公」

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こんにちは「とっきー」です。

現在、天満宮に学問の神様として祀られている「菅原道真公」ですが、実は日本三大怨霊のお一人なんです‼️

 

日本三大怨霊

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数々の逸話が残ってる「菅原道真公」ですが、平安時代の京都に於いては、強力な怨念を持った怨霊として、人々に恐れられていました。

ちなみに、他の二人は首塚で有名な「平将門公」と、以前にもご紹介した、最強の怨霊として明治時代まで恐れられていた「崇徳天皇」です。

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この三人の中で最も古い、初代の怨霊が「菅原道真公」になります。

 

出る杭は打たれる

そもそも、当時の朝廷は、家格に応じた出世が通例でした。菅原家は、当時の公家の中でも、それ程上流階級の家柄では有りませんでした。それにも関わらず、「余人をもって代えがたし」と言われる程の秀才であったため、時の権力者「宇多天皇」の治世に於いて、重用され、異例の大抜擢をされました。

更に時代は進み、「宇多天皇」は上皇に退き「醍醐天皇」の世になっても、「菅原道真公」の出世は止まりません。当時、朝廷を支配していた「藤原一族」に匹敵する程の出世を果たし、とうとう時の右大臣に任命されました。

以前にもご紹介した「日本のロスチャイルド」と言われる「藤原一族」にとっては、脅威となっていったのです。

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天皇の外戚

当時の「藤原一族」がそうであった様に、朝廷支配を行う方法は、天皇家と外戚関係になる事です。つまり、自分の子供を天皇に嫁がせ、生まれた孫を天皇の位に就かせる事により、自分の支持基盤を盤石にしようと考えるのです。

秀才の「菅原道真公」の事、彼もそれを実行に移し、自分の子供を皇子に嫁がせました。当然、時の左大臣「藤原時平」にしてみれば、いつ失脚させられるか分からない状態になる恐れも有り、時の天皇である「醍醐天皇」に讒言をしました。「菅原道真」は、「醍醐天皇」を退位させ、自分の孫を天皇の座につけ、朝廷を私しようと画策していると。

 

太宰府へ左遷

「醍醐天皇」はこの「藤原時平」の讒言を聞き入れ、「菅原道真」を太宰員外帥として、九州へ左遷したのです。この時、「菅原道真公」は、朝廷での地位も名誉も全て失いました。余りの失意の中、僅か赴任から2年後の903年に太宰府にて死去致しました。「菅原道真公」の死後、お墓のあった場所に建てられたのが、現在の「太宰府天満宮」です。

 

怨霊として祟る

道真の死後、讒言をした「藤原時平」が39歳の若さで亡くなりました。その後、道真の左遷に関わった人物が、奇怪な死を遂げ、「醍醐天皇」の子や孫も次々に亡くなりました。

更に、朝廷の清涼殿に雷が落雷して、多くの死傷者が出ました。それを目撃した「醍醐天皇」は、体調を崩し2ヶ月後に崩御しました。

 

怨霊から神へ

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ここに至って朝廷は、「菅原道真公」の怨霊を鎮めるために、火雷神を祀っていた北野の地に「北野天満宮」を建て祀りました。官位も左大臣、太政大臣と最高位を贈り、ようやく雷の炎も治りました。

以上が、「菅原道真公」が京都を震撼させた怨霊から、学問の神様になった物語です。

 

どうか、「北野天満宮」の動画もご視聴いただき、バーチャル参拝をして、「菅原道真公」の威徳を偲んで下さい。

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